戦後の少女達が熱狂!大正ロマンの代名詞・蕗谷虹児のイラスト

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戦前から活躍し、少女雑誌の挿絵を手掛けたことから、戦後の少女たちから圧倒的な人気を誇った蕗谷虹児。他の画家とは一線を画する画風で、今なお愛され続けています。今回はそんな挿絵画家で詩人としての顔も持つ、蕗谷虹児についてご紹介します。

デビューのきっかけは竹久夢二

或る夢の夜
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1898年(明治31年)に新潟県で生まれた蕗谷虹児。母親を12歳の時に亡くし、絵の夜学に通いながら、新潟市の印刷会社に丁稚奉公していました。絵の才能を市長に認められた蕗谷虹児は14歳で上京し、5年間日本画を学びます。その後、父親の仕事の関係で樺太へ渡りますが、1919年(大正8年)に再び上京し、デザインの勉強をします。
そして、1920年に大正の浮世絵師と呼ばれた竹久夢二を訪ねたことがきっかけで、少女雑誌の世界へ足を踏み入れることになりました。竹久夢二に紹介された雑誌「少女画報」で挿絵デビューを果たすと、蕗谷虹児は瞬く間に人気挿絵画家となりました。

詩画集を手掛け、自身の絵を「抒情画」と称する

花嫁
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1924年「令女界」で発表した詩画「花嫁人形」は、のちに曲もつけられ、蕗谷虹児の代表作となります。幼いころに母親を亡くした経験から生み出される感傷的な自分の絵を、蕗谷虹児は「抒情画」と名付けました。蕗谷虹児は9冊の詩画集を出版し、詩の才能も開花させました。

挿絵画家として活躍するも、パリへ留学

混血児とその父母
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挿絵画家として活躍していた蕗谷虹児でしたが、より絵の勉強をしたいとパリへ留学します。生活は苦しいものでしたが、努力が実りフランス画壇で多くの入選を果たし、フランス画壇で活躍する日本人画家たちと交流を持つなど、多くの実りを得ました。その後、再び挿絵の世界に舞い戻った蕗谷虹児でしたが、その画風にはパリで培われたシャープさが加わり、より洗練された作品を世に出すようになりました。

戦後、多くの雑誌に挿絵を掲載

露草
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戦時色が濃くなると、蕗谷虹児は制作を休止してしまいます。しかし、終戦後復興した多くの雑誌で挿絵の掲載を再開させます。雑誌だけではなく絵本でも活躍し、20冊以上の絵本に差しを描きました。さらに、アニメーション企画にも参加し、アニメーション映画『夢見童子』の原画・構成を担当しました。

「蕗谷虹児記念館」が建てられ、今なお愛され続けている

蕗谷虹児記念館
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1979年に亡くなった蕗谷虹児ですが、1987年に故郷新潟に「蕗谷虹児記念館」が開館。原画や遺品などを展示しています。建物は1998年に、国の「公共建築百選」にも選ばれました。純粋無垢な作品の数々に心癒されるという、評判の人気観光スポットとなっています。

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戦後の少女達が熱狂!大正ロマンの代名詞・蕗谷虹児のイラストはいかがでしたでしょうか?時代に翻弄されながらもその才能を発揮し続けた、蕗谷虹児の世界に浸ってみてください。