女優、沢村貞子がつづる、くらしと食のエッセイが素敵

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私の台所
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昭和生まれの方なら、誰もが一度はドラマや映画でその顔を見たことがあり、記憶に残っているであろう女優、沢村貞子。生涯脇役を貫き通し、350本以上の映画や数々のTVドラマに出演、なくてはならない名脇役女優として確固たる地位を築きました。また、突出した文才の持ち主でもあり、素晴らしいエッセイ・名言を多数残しています。ここでは「女優」ではなく「エッセイスト」沢村貞子の遺した作品を中心にご紹介していきます。

昭和の大女優 沢村貞子を知っていますか?

沢村貞子
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1908年東京生まれ。大学時代に左翼運動家と結婚、自身も活動に参加し逮捕・獄中生活も経験するなど、波乱の学生生活を送ります。その一方で役者を志し、小劇場で女優としても活動していましたが、1934年、当時既に日活の映画スターとして活躍していた兄、沢村國太郎の勧めで日活へ入社し、本格的に女優としてスタートを切ったのです。
入社後すぐ、小さな作品の主役に抜擢されますが、自ら脇役を志願し、周囲を驚かせました。「スターになる夢などもたず、自立のために役者という職業を選んだ以上、一生この仕事を続けるには脇役がいいと計算しました。」と後に語っています。この凛として一本筋の通った考え方は、1996年に87歳で生涯を終えるまで変わることはありませんでした。

エッセイスト・沢村貞子の誕生「私の浅草」

私の浅草
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既に名脇役として様々な作品に出演し、高い評価を得ていた1969年、初のエッセイ「貝のうた」を発表した沢村貞子。この作品は、自身が逮捕された経緯を克明に記すなど、37歳までの自伝とも言えるものでした。
その7年後の1976年、2冊目のエッセイ「私の浅草」を発表します。こちらは、生まれ育った浅草で過ごした22年間、つまり少女時代の沢村貞子の生活ぶりを綴った一冊です。役者一家にもかかわらず、質素でつつましい暮らしの中で体験した日常を、昔ならではの人情味あふれる近所付き合いや、下町・浅草独特の風情を織りまぜながら、臨場感溢れる生き生きとした文章で綴っています。今なお名著と評価されているこの作品は、翌1977年の日本エッセイスト・クラブ賞に選出されました。「エッセイスト」沢村貞子の誕生です。

弟、加東大介の死。

加東大介
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「私の浅草」の最終章では、この本が発表される前年に64歳で早世した弟、加東大介への痛切な想いが綴られています。加東大介は、黒澤明監督にその演技を高く評価され、「羅生門」「七人の侍」など数々の名作に起用され、TV・舞台でも大活躍していた名優でしたが、1975年に癌を発病し入院、そのまま帰らぬ人となりました。病名を告知されていなかった弟との、病室での会話の場面などは、涙なくして読むことができません。

「萬盛庵物語」は今でも続いています。

耕治
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中華料理耕治・小倉鳥町本店

「私の浅草」の中に、当時としては珍しく、店舗に日本庭園まで併設されていた蕎麦の名店「おく山萬盛庵」について書かれた「萬盛庵物語」という章があります。もちろん当時のお店は現存しませんが、その萬盛庵の末っ子として生まれた平野耕治さんが、1955年小倉の地で中華料理の店を創業していたのです。その名も「中華料理耕治」。
蕎麦から中華へとメニューは変わりましたが、先代が親交の深かったタレント、永六輔氏は「浅草を相続している店、人も味も」と絶賛し、その歴史は脈々と受け継がれているようです。現在は代替わりして息子さんが後を継ぎ、開業時からの看板メニュー「醤油ラーメン」は現在でも大人気のメニューだそうです。
ちなみに、「私の浅草」を原作として制作されたNHKの朝ドラ「おていちゃん」に登場する、主人公の親友”おきぬちゃん”は、萬盛庵の女将、平野とめがモデルになっています。

本当の”上等な生活”とは?「私の台所」

私の台所
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「昭和」という古き良き時代の暮らしぶりや生活の知恵がギッシリ詰まっている珠玉の作品が「私の台所」です。母から子へ伝えられてきた宝物のような言葉の数々は、これからもずっと受け継がれていくのだろうか…。この本を読むと、ふとそんな事を考えてしまいます。
家族の形も大きく変わってしまった今では、いずれ跡形もなく消えてしまうのかもしれません。だからこそ、世の女性達には、この本を読み、次の世代へ「昔の暮らし」を伝えていってほしいのです。
「物欲、食欲、ほぼ全てが満たされている今の暮らしが本当に”上等な生活”と言えるのか?」そう沢村さんに問いかけられているようで、思わず背筋がピンと伸びる気持ちになる一冊です。

夫に対する深い愛情が伝わってきます。「わたしの献立日記」

わたしの献立日記
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実際の献立日記
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沢村さんがつけていた「献立日記」の実物

「私の台所」でも記されていますが、沢村さんは57歳から84歳までの27年間、一日も欠かさず「献立日記」をつけていました。2度目の結婚をしていた38歳の時、京都の新聞記者だった大橋恭彦氏と恋に落ち、駆け落ち同然で無一文から2人の生活を始めた沢村さん。大橋氏も既婚者だった為、正式に結婚できたのは彼女が60歳の時でした。
大橋氏と生活するようになってからは、彼を献身的に支える事が沢村さんの生きがいとなり、泊りの仕事は一切受けず、必ず毎日台所に立ち、彼の食事を作りました。同じメニューを出さないよう、創意工夫してバラエティに富んだ料理を作っていましたが、ある時から日々の献立に迷う事が多くなります。それが「献立日記」を書き始めたきっかけでした。
「わたしの献立日記」には、最初の1冊目と、この本が出版された頃に書かれた30冊目の「献立日記」がそのまま収録され、その合間には様々なエピソードも記されています。献立を見ているだけでも、そこにはストーリーがあり、彼女の真っ直ぐに生きる姿勢や、夫に対する愛情の深さがひしひしと伝わってきます。

沢村さんの献立を再現している本があります!

沢村貞子の献立日記
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「献立日記」に関連する本も一冊ご紹介しておきます。
フードスタイリストの高橋みどり氏が、沢村さんが書いた実際の「献立日記」36冊を全て読み込み、その中から厳選した献立を再現しているのが「沢村貞子の献立日記」です。
沢村さんと親交の深かった黒柳徹子、山田太一両氏も寄稿しており、彼女をリスペクトする想いが溢れる作品です。

夫が愛した味、大学芋。

大学芋
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「献立日記」にたびたび登場するメニューが大学芋。夫である大橋氏の大好物で、よくリクエストされたメニューだそうです。
NHKの番組「グレーテルのかまど」の中でも「沢村貞子の大学芋」として紹介されていました。

沢村貞子、生涯最後のエッセイ。「老いの道連れ-二人で歩いた五十年-」

老いの道づれ
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沢村さんは1989年、81歳で女優を引退。湘南の海が一望できる横須賀へ転居し、執筆活動に専念します。ようやく夫に寄り添える生活を手に入れ、二人きりの楽しい老後を迎えたのも束の間、夫が急死。悲嘆にくれながら遺品の整理をしていた時、夫が密かに書いていた原稿が見つかります。そこには沢村さんに対する感謝の言葉が綿々と書き綴られていました。「ぼくは幸せだった。」その言葉に涙が止まらなかったそうです。沢村さんは後にこう語っています。「私は何もできなかった。でも、1人だけ幸せにできた。」と。
夫の死後、あれだけ一生懸命考えて作り続けた食事も、全てお手伝いさんに任せ、一切作らなくなった沢村さん。夫の死後2年たった1996年、87歳で亡くなられました。そして沢村さんの遺骨は、最愛の夫の遺骨とともに相模湾に散骨されたのです。
夫を亡くした翌年に出版された生涯最後の作品「老いの道づれ」は、悲しみの中、幸せだった50年間の大切な想い出を一つ一つ振り返りながら、来世で再会し、また二人で楽しく過ごしたいという気持ちが克明に綴られています。この写真にある本の表紙は、夫の遺骨を包んでいた風呂敷のデザインだそうです。
これこそが本当の「添い遂げる」という事なのでしょう。
昭和の時代を生きた「かっこいい女性」沢村貞子のエッセイを是非一度手に取ってみてください。